みそぎ浜に吹く風

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南部坂の窓辺から

 十字街の交差点近くの南部坂を少し登ったところに母が入院している病院がある。私はいつも三階の病室の窓辺から函館山の麓の景色を眺めている。南部坂とはロープウェイ山麓駅へと続く人通りの多い坂道で、つい百六十年前まで南部藩の陣屋があったことに由来している。

 ロープウェイ山麓駅から視線を上に向けると函館山の中腹に向かうように民家が立ち並んでいる。私は、その中の、とある一軒の家が気になっていた。或る日、運動を兼ねて私は、その家まで行ってみることにした。

 

 函館山の登山口に動植物や散策コースの案内などを行う「函館山ふれあいセンター」という簡易な木造の建造物がある。私がふれあいセンターを視認したとき、同時にカラスが低い外階段の欄干に止まっているのを捉えた。

 吸い込まれるように私はそちらへ向かった。カラスは私が近づいても逃げる気配はなく居座っていた。私が階段を上がり始め、その距離は手を伸ばせば届くほどになった。それでも逃げない。間近で見るカラスは威風堂々としていて、私はカラスの王なのではないかとさえ感じた。年甲斐もなく、たじろいだ。通じるはずはないと知りつつ、私はカラスに話しかけてみた。「怖くないのか?」カラスは私の心を見透かしているようであった。

 ふれあいセンターで小休止した私は山道を更に登ったが、その家を見つけることはできなかった。窓辺から見えている景色のどこに自分がいるのだろうかということを考えつつ、道を誤ったことだけは確かな山道を歩いた。

 後日改めて、窓辺から正面に見えるマンションの脇の細い道を登っていくと、その家にたどり着いた。そこで何か運命を変える出逢いがあったということもなく、かくして数か月にわたる私の小さな冒険はひと段落した。

 

 人生もそのようなものではないだろうか。かねてから本に親しむ習慣がある私は、母が入院してからというもの、更に読書という行為に耽った。長男から、ひょっとして文才があるなら世に活かせだとか、とにかく記録をするということに意味があるのだと言われ、私は文章を書き始めた。

 私の作品は彼から「何が言いたいことなのかわからない」と手厳しい評を受ける。私からすると、何を言いたいということではなく日常の記録がこれなのである。それでも、扱う題材を含めてブログが自己の内面の変化を切り取っていることに気がつく。

 

 うっすらと雪をかぶった函館山は、それ自体がオブジェのようであり、窓際で私は時折祈りを捧げるように山を眺めるのである。